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思考

別れ

 みんなが、自分を、主人公にした、物語の中を、歩いている。街では、お互い知らない者同士が、そしらぬ顔で、それぞれの、目的地に向かって、進んでいく。けれども、人は、ときに、受け入れ合い、強い絆を結ぶときがある。それは、生まれる前から、決まっていたように、自然と発生するようなもので、運命めいたものを感じる。

 それでも、別れは、いずれやってくる。別れは、今まで、知らなかった、大事なことを、気づかせてくれる。隣にいてくれることが、当たり前だった人の、ありがたみや、その価値、貴重さを悟る時期がくる。すべてが、時の流れに、消えてしまったわけじゃない。

 時々、心の一部分が、欠けてしまったような感覚に、陥るときがある。頭のねじが、一本はずれたみたいに、上手く機能しない。すべてのことに、無関心になる。そんなときは、思い出す。あのころは、何かを、強く信じていたし、何かを、強く信じることのできる、自分を持っていたことを。そんな思いが、そのままどこかに、虚しく、消えてしまうことはないから。

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日常・コラム・エッセイ

ありのままで

 去年、スペインに、一人で、旅行したときのことを、たまに、思い出す。食べることについて、あれこれ考えるのが、面倒だったので、目についたバルに入り、コーラと、スモークサーモンの乗ったピザを、注文した。見回した限りでは、一人でコーラを飲みながら、黙々と、ピザを食べているのは、僕くらいだった。人々は、大きな声で、賑やかに、語り合っていたが、聞こえてくる言葉は、すべて、スペイン語だった。そのときになって、ようやく、自分が、日本を遠く離れ、外国にいるのだという事実に、思い当たった。そういう状況を、とくに、気にもしなかった。しかし、その時、僕は、ただ一人であるというだけではない。二重の意味で、一人なのだ。僕は、異邦人であり、まわりの人々は、理解のできない言葉で語り合っている。

 それは、日本で、いつも感じているのとは、また、違った種類の、孤立感だった。二重の意味で、一人であることは、あるいは、孤立の二重否定に、つながるのかもしれない。異邦人である僕が、孤立していることは、完全に理にかなっている。そこには、何の不思議もない。自分は、まさに、正しい場所にいることになる。

 どんな言語で、説明するのも、むずかしすぎるというものごとが、私達の人生には、ある。他人に、説明するだけではない。自分に説明するのだって、それは、やはりむずかしすぎる。無理に、説明しようとすると、どこかで、嘘が生まれる。いずれにせよ、ときが経てば、いろんなことが、今より明らかになるはずだ。それを、待てばいい。自分は、自分のままで、生きていけばいいのだ。

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思考

やむにやまないこと

 毎日、いろんな騒ぎが、あちこちで、繰り広げられている。まるで、世界が、根もとから、でんぐり返しを、しているみたいだ。ちょっとした見物だ。そういう現場を、見逃すのは、惜しくないのかと、誰かが言う。

 けれど、世界は、そんなに、簡単に、でんぐり返りなんかしない。でんぐり返るのは、人間の方である。そんなものを、見逃したところで、惜しくはない。都会で、持ち上がってることに、僕は、関心を持たない。今日、起きたことで、本当に興味があって、自分と、関係していることは、一体いくつあるんだろう。やむぬやまれなさがあって、伝えるべきことなんて、本当は、ものすごく少ないのかもしれないと思う。

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思考

一般論と、個人的な話

 キー・ポイントは、弱さである。全ては、そこから始まっている。きっと、その弱さを、誰もが、理解できない。それは、体の中で、腐っていくものである。どれだけ、わかっていても、自分で、なおすことはできない。何かの拍子に、消えてしまうものでもない。道徳的な弱さ、意識の弱さ、そして、存在そのものの弱さ、いろいろなものが含まれている。そんなことを、言い出せば、弱くない人間なんて、いないのかもしれない。けれども、それは一般論である。一般論を、いくら並べても、人は、どこにも行けない。僕は、今、とても個人的な話をしている。

 だからこそ、僕は、ここではない、どこかに、行きたいのかもしれない。一人で、知らない土地を、歩きまわっていれば、少なくとも、その弱さが原因で、誰かに迷惑をかけずに済む。十代の半ばから、ずっと、それを、感じつづけていた。本当の弱さというものは、本当の強さと、同じくらい、稀なものである。たえまなく、暗闇にひきずりこまれていく、弱さというものが、実際に、世の中に、存在する。

 結局のところ、黒い影から、逃げきれないのも、その弱さのせいである。僕自身には、どうにもならなかったのである。けれども、生きることは、これからも、続いていく。やっかいなものを、抱え込んだまま、それと、うまく付き合っていく方法を考えなければいけない。それは、よく知られているように、難しい作業なのだ。影は、僕の体、記憶、弱さ、矛盾、全てを、好んで、求めてくる。影から逃れ、自分を保つことは、可能だろうか。

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思考

社会は、僕抜きでちゃんと動いている

 思考のリズムが、どことなく不均一で、ひとつの事実を、うまく、呑み込めないときがある。起きたばかりで、頭が、まだ、よく働かなかったし、それに、もし、頭がよく働いたとしても、僕のまわりで、起こりつつある様々な出来事の、ひとつひとつに、きちんとした意味を、与えていくことは、もうとっくに、僕の能力の範囲を、超えていた。要するに、物事を、流れのままに、まかせるしかないのである。

 そんな時は、草原の真ん中に立って、まわりの風景を眺める。そして、いつも不思議な気持ちになる。緑以外、何も目に入らない景色は、何かしら、奇妙なものだったし、遠く離れた都会で、人々が、今も日常の営みをつづけているというのも、妙だった。何よりも、社会が、僕抜きでちゃんと動いているというのが、いちばん、奇妙だった。

 中学生の時期を、通り抜けて、いつのまにか高校生、大学生になっていく。社会に出ると、いきなり、国家や、社会の一員としての、自分を、自覚することになる。学校のことで、手一杯だった、あの頃が懐かしく感じる。日本人としての自分の、空虚さ。国際的な視野に立った視点が、求められることが、多くなるけれども、小さな視点を中心として、許すことや、憐れむことを、忘れないでいたいと思う。

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思考

音楽は、思想ほど風化しない

 古い書棚に、数多くの古書が、ぎっしりと、並んでいたとする。地理や科学や歴史や思想、政治に関する本が、多い。どれもが、戦前の本で、その大抵は、無価値だ。一昔前の、一般的知識人の、基礎教養を、研究する以外の目的には、まるで、役に立たない。何冊かの小説だけが、風化を、まぬがれて、生き残っていた。厳しく、長い冬を、越すにあたっては、結構、役に立つのかもしれない。その隣に、60年代中期に、流行ったタイプの、スピーカーと、アンプと、プレーヤーが、セットされている。二百枚ばかりの、レコードは、どれも古く、盤面は傷だらけだが、少なくとも、無価値ではない。音楽は、思想ほど、風化しないのである。

 それでも、音楽は、僕の心に寄り添い、癒してはくれたけど、あの時、戦争を止めることはしなかった。いつだって、この世界は、不条理と暴力で、あふれている。人の命が、亡くなれば、そこには、いつでも正しさがあるとは言わない。けれども、様々な、歴史認識があるように、何一つとして、確かなことなどない今の社会で、ただ一つ、断じて言えることは人は、いつかは、死を迎えることである。それには、深く、考慮する価値があると、僕は思っている。

 なぜ当時、日本人は、あの無謀な戦争に突き進み、非人道的な行為が、次々に、繰り広げられたのか。戦後70年目の夏を迎えている現在、むせかえるような暑さが、続く、毎日の狭間に、考える余地が、あってもいいと思うし、今の日本人に課せられた、一つの使命だとも思う。

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思考

正直さと真実との関係、あるいは一隻の船

 ある一つの、町の史実を、本にまとめようとしたら、最後に、「現在」の姿を、書く必要にせまられる。たとえ、その現在が、すぐに、現在性を失うとしても、現在が現在であるという、事実は、誰にも、否定できないからである。現在が、現在であることを、やめてしまえば、歴史を語り続ける伝承も、意味が、なくなってしまう。

 文章を書く時は、できる限り、正直に書こうと思う。しかし、正直に書くことと、真実を話すことは、また、別の問題だ。正直さと、真実との関係は、船の先端と、末尾の関係に、似ている。まず、最初に、正直さが現われ、最後には、真実が現れる。そこにはどうしても、時間的な、差異が生じてしまう。その差異は、話の大きさ、あるいは、船の規模に比例する。巨大な事実の、真実は、現われにくい。史実の本が、できあがった後に、だいぶ時がたって、やっと、現れるということもある。だから、ここに書く文章が、真実を示さなかったとしても、それは僕の責任でもないし、誰の責任でもない。

 たとえ、真実が見えて来なくても、船を進めるために、正直に語り合い、真実に、一歩でも近づくことは、必要な過程である。「豊かな人間性を育もう」というのは、眠気を誘うスローガンだ。同じく、当選する人物が、はじめからわかっている選挙みたいに。それでも、僕らは、船の舵を、離すことを、してはならない。

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思考

思想の相反性、あるいは馬と干し草

 現在、置かれている状況を、分かるように、説得しようとしても、うまくできません。自分にも、うまく説明できないことを、他人に向かって説明できないことは、当然と言えば、当然の話なのかもしれません。人は生きるうえで、何か、不変で、絶対的なものを求めるが、それは、結局は、主観的な解釈にとどまります。ある文脈の中でだけで、生きていくことができるのならば、他人に向けて手紙を書く必要もない。ある意味で、終結点に辿り着いたとして、僕は来るべくして、ここに来たような気もするし、また、あらゆる流れに、逆らって、ここまで来たという気もする。生きていくうえで、相反する思想が、つきまとってくることは、否めません。

 自分の人生に対して、必要以上に意味を、与えすぎていると思うかもしれません。生きていくということを、説明しようとすればするほど、順序が逆になったり、正反対の、言葉を間違えて、使ってしまったりする。細かく、解説しようとすればするほど、文章はバラバラになってしまうというのは、事実です。そこには、一頭の馬が、左右に干し草を置かれて、どちらを食べ始めればいいのかを、決めかねたまま、餓死してしまうといった類いの、悲しみが、漂っている。

 具体的な話をしたとしても、いつものように風が吹き、海から波の音が、聞こえてくることには、変わりはないし、都会なら、海を埋めたてた土地で、コンクリートでできたビルに、囲まれていることには、変わりはない。何が間違っていて、何が正解かは、自分で判断を下すことができない。ただ、初めから決まっていたルールに沿って、町ができ、同じように栄えては、廃れていく。歳を重ねることは、そういうことを、知っていくことなのかもしれません。

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思考

風の声を、聞け

 今、あるような、圧倒的な資本主義的世界において、少なからず、人々は、物質や数式、固定観念から、離れたところに、かたちにみえない、個人的な価値を、見いだそうとしています。だから、ひとつのフィクションとして、用意されている、小説の物語を読んだり、あるいは、音楽を、聞いたりしているのかもしれません。そして、できるだけ、独立した、個人でありたいと願っても、日本という国に住んでいるいじょう、国家や、文化からは、逃れることはできない。そんなジレンマを、抱えることになります。

 学術的な世界や、経済においても、大局的な視点で、意見を、述べることが、要請されます。歴史のなかに身を委ねて、自分の位置を、把握する想像力や、思考力が求められているからです。けれど、どんなに青臭いと言われても、個人的な視点に重きを置くことが、大切だと思います。物事の状況をより、正確につかむためには、ひとりひとりが感じる、ローカルの視点を、無視することはできません。

 1960年代の学生運動で、若者が大きな「体制」に異議を申し立てて、社会にメッセージを発信した。理想主義とまではいかないけれど、そんなふうに、希望を失わず、大志をいだくことが、もう一度、意味を持つような気がしています。風の通り道にたって、風を感じるのが一瞬のように、伝えたい想いを、誰かに、理解してもらいたいと思う時間は、人生の、ほんの一時期なのかもしれません。どこかの洗濯物を乾かしながら、世界の果てまで、いってしまいそうな、風の声を聞くのは難しそうですが、少なからず、理想と、現実を行き交うように、言葉を紡いでいきたいです。

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思考

ブログを書く理由、あるいは壁にぶつかるガラス玉

 社会で起こる、いろいろなことや、目の前で起きる、個人的なことを、できるだけ、公平に、つかみたいと、思っている。必要以上に、誇張したり、必要以上に、現実的になったりしたくない。でも、そうするには、時間が必要になるのです。どれくらいの時間が、必要なのかと聞かれても、分からないけれど。それは、ささやかな、生き方の問題なのかもしれません。

 目に見えない力に、抑圧される側のために、あるいは、本当に、しゃべりたいことを、うまくしゃべれない人のために、解放の言論を、手に入れる。それが、アカデミックの世界に、かせられた、ひとつの使命だと思います。例えば、壁にぶつかっていくガラス玉があるなら、必ず、壁の方ではなく、ガラス玉の側の、立場にたって、文章をつくりたいです。もし、壁側にたって、成り立っている理論があるなら、それは、僕にとって、ぼっとん便所の便器に、流してもいいくらいに、必要のないものです。ここに、かかれた文章の真偽でさえ、自分でも、保証することのできないちっぽけなものだけれど、ガラス玉が割れてしまうほどの重圧を、すこしでも、軽くするものになればいいなと思っています。