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自分のこと

レリヴァント、あるいは僕らの出来事

・善意と悪意
 誰かの善意が、この世界を、輝きのあるものにする。もっと優しくなれたら、あの人のように、心からの笑顔を、他人に向けられるようになるのかなんて、考えてしまう。「ありがとう」という言葉が持つ力は、普遍的にまぶしい。人と人とが織りなす風景が、無限に輝き続ければいい。親切が、空虚にすり替えられるとき、世界は、音もなく、消え去ってしまうだろう。
 どうやら、悪意というものは、共感が共感をうみ、もとあったものからは、想像できないくらいに、増幅していくようだ。この社会に、渦巻く憎しみという感情の行き場は、必然的に弱者に向けられる。インターネット上で飛び交う罵声を鵜呑みにするやつは、馬鹿だと言わんばかりに、過ちをおかした人間に、大きな声で正義を語る。まるで、あなたは、生きる価値がないと諭すように。

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・アイロニー
 高校生の僕は、なんというか不健全だった。健やかな心持ちになるなんてことは、たぶん1年で3回くらいだったし、夜になるたびに、ベッドにくるまっては、希望のない明日がくることを恐れていた。未来なんて、いらないと思ってた。親への感謝なんてものは、微塵もなく、繰り返す日々を、ただ惰性で生きていた。たった一人で、言葉にはできないむず痒い感情と向き合っては、少しでも世界がよくなるように祈っていた。ありったけの皮肉を込めて。

・孤独
 今も思うけど、僕は誰に思いを打ち明けるべきだったんだろう。同性愛を自覚し始めた頃の特有の孤独感を、どう説明したらいいか、僕には皆目、検討がつかない。思春期の不安定な自我を抱え込み、大人への道を進むときに、周りに理解者がいない心細さは、荒野に置き去りにされた子犬のように、ただ震えることくらいしかできない無力さを浮き彫りにする。涙を流すことで救われる毎日にすがる僕は、本当に惨めだった。

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 人は、レリヴァント(意味的な関連があるか)な情報や言葉に、心惹かれる。自分のことを分かってくれているなという文章は、その人の心に残りやすい。世の中に溢れるキャッチコピーも、観る人にとって、共感を生み出そうという意図が見え隠れする。ただ、当時ゲイである僕に向けられている情報は、あまりにも乏しかった。同じセクシュアリティの友達を探す方法なんて分からなかった。恋愛について相談できる相手がいれば、本当に生きやすかったと思う。残念ながら、僕らの人生にふりかかる出来事は、楽しいことばかりではない。絶望の淵で生きているかもしれないあなたに、ここに綴る言葉が届けばいい。そう願っている。

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映画レビュー

001 「パーマネント野ばら」(2010)

 例えば、女の子がうずくまって泣いている。少女から大人へと変化する時期の、彼女たちの憂鬱を、僕は、思い知ることはできない。およばぬ場面で、性的な対象として、見られることだって、遭ったかもしれない。ここで、フェミニズムについて、語ろうとは思っていない。ただ、女性の人生において、自分たちの力では、どうすることもできない苦難がある。それに、立ち向かわなければならないことを想像できない社会は、いささか生きにくいのではないか。

 なぜ、涙を流しているのと聞くこと自体、ナンセンスだ。社会で渦巻く憎悪や嫉妬や偏見が、思いもよらず、個人を傷つけてしまう場合がある。言葉にできない思いについて、語らなければ、その傷跡さえ、なきものにされてしまう現状を、変える手だてはあるはずだ。だから、だれかが声をあげるべきなんだと思う。それが、映画としての表現だっだとしても。

 この物語は、海辺の街で営まれる美容室が、舞台となっている。そこに集まる女性たちの恋愛は、決して綺麗ごとだけでは語れない人間味で溢れている。本当の意味での他人を愛するという醜さだったり、愚かさを、細かく描写し、観る人にとって、不思議な共感をうむ。誰かを思い続けなければ、正常を保っていられない彼女は、きっとまた、強くなれる。それを、証明してくれる映画であることは、間違いない。

 まず、邦画と洋画という区別がある。どちらを好むかは、それぞれだ。初めてのレビューで、どの作品にしようか、迷ったんだけど、やっぱり好きな映画にしようと思い、この作品にしました。洋画で観るような、派手なアクションだったり、壮大なスケールの世界観ではないけど、邦画にも優れた力作があるんだと、知って欲しいです。

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映画レビュー

映画について、語ることがあるとするならば

 新しい風に、手をかざす。少しだけ、先が見える。心につながる道を通り過ぎる旅人は、いつか歩みを止める。そんなときに出会う言葉は、ありふれたものかもしれないけど、まっすぐ、響くに違いない。

・僕が何にお金を使ったのかという話
 率直にいって、映画が好きなのである。一時期、休みの日になるたびに、一人で映画館に足しげく通っていた。一日に2本だったり、立て続けに鑑賞したりしていたもんだから、順調に、お金は飛んでいった。なぜ、そんなことをしていたのだろうと今になって考えても、分からない。ただ、感情を揺さぶる形としての、なにかしらインプットされる物が、僕には必要だったのかもしれない。それは、屈折した感情のはけ口を探してさまよう、子羊のようだ。不安定な価値でさえ、認めることを許さない社会について、もの言いたげにして表現をする映画が、僕に生きる希望を与えてくれた。
 もし、映画について語ることがあるとするならば、僕は間違いなく、愛の風景を構築しようとする表現者の結晶について話すだろう。時代背景、社会的要因、ストーリー、登場人物、台詞、どれも映画を構成するものとしては、欠かせない。全てが歯車のようにかみ合ったときに起こす作用は、僕たちが生きる根源に、しっくりと影響を及ぼす。

・原体験
 ひとつ、具体的な作品を挙げたい。初めて映画をみた体験として覚えているのが、「猿の惑星」なのである。幼少期に、たまたまテレビで放映されているのを観たんだけど、最期の「自由の女神像」を発見するシーンに、衝撃を受けたのを記憶している。ここで、あらすじは説明しないけど、終盤で物語が、点と点を結ぶように繋がる瞬間が引き起こすエクスタシーに酔いしれた。

 とりあえず、僕が過去に観終えたものを、手短にレビューできたらなと思っています。映画の好き嫌いは、個人によって分かれるので、お前の感想なんていらないよという方は、スルーしてください。よろしくお願いします。

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社会の出来事

つながり、あるいは家路につく途中で

 幼い頃の記憶が、徐々に風化していくのが、分かる。数十年の時を経て、僕は、大人になった。でも、なぜだろう。酒を飲みながら、楽しそうに話す父親の姿が、それを見守る優しい母親の眼差しだけは、忘れない。というか、どこまで考えても、僕のルーツは、そこにしかないと思い知る。
 仲睦まじく手を繋いで散歩する老夫婦、母親に連れられて保育園に向かう子どもたち、いぶかしげな表情で、目の前の風景をカメラで写真に収めようとする青年、朝のなにも変哲のない公園の風景は、やがて営みとなり、過去となり、歴史となる。1日1日が積み重なってできる現在が、今日も、滞りなく終わればいいと思う。そこで生まれる人と人とのつながりは、なにものにも、代え難い。

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・再考
 川崎殺傷事件を、ネットニュースで知る。報道を見ていると、孤立する人間を、いかに社会に包括していくかが、語られたりする。でも、ひとりになることを自ら選んだ人間を、気にかけるほど、世間は、甘くないという人もいるだろう。ひとりで死ぬなら、迷惑をかけず、だれも傷つけずにひっそりと死ねという気持ちも、少し分かる。誰もが生きづらさを抱える社会で、あるいは、まともに生きることが難しい時代に、僕らは、いかに、つながりを維持していくのか、自分と他者を結ぶゆえんは何なのか、生きがいをみつけるには、どうすればいいのかを、もう一度考えてみるべきだ。

・たくさんの人間たち
 こんなおかしな社会で、悲惨な事件をおこす奴がいても仕方ないという、空気感が怖い。まぎれもなく社会とは、僕ら自身のことであると思うし、そんな世の中を、是としてきたのも、僕らだ。じゃあ一体、自分たちに何ができるんだと、あなたは思うだろう。まず、僕が取り上げたい視点は、たくさんいる人間を、同じとして、考えていいのかということだ。容疑者は、他人との接点は、皆無に近かったという。でも、たぶん孤立している人間は、他にもたくさんいる。(ひきこもりと呼ばれたりする。)それが、事件の要因となったのか、あるいは、彼自身の固有の問題なのかを、見極めるべきだと思う。

・バックグラウンドを考える
 それによって、社会が行う介入の仕方が、大きく変わってくる。もし、おなじ状況におかれた人間が、同じように、犯罪を起こす可能性があると考えたとしよう。きっとそれは、多くの人を傷つけるだろうし、差別や偏見を生むだろう。個人的に僕は、人間は同じように見えて、実は異質な存在だと考えている。だって、そりゃひとりひとり育ってきた環境や、出会ってきた人が違ったら、考え方も、それぞれになるだろう。まして、生まれた年代や、国籍が違う人間を、同じグループとして捉えるのは、強引すぎではないかと思う。

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 この事件について、有識者たちが、意見を述べる。そりゃそうだろう。なにか言わなきゃ、あるいは分析して新たな知見を得なければ、どうして、何の罪もない人々が被害に遭ったのかを、呑み込めない。テレビで交わされる考えはどれも一般的で、当たり障りのないものかもしれないけど、そうやって、次に悲劇をうむ前に、どうにかしないといけない焦燥感が、みなにある。死んでいい命なんてない。社会をかえることができる。亡くなった人たちの魂に、思いを馳せる。それは、いつも仕事が終わり、家路につく途中だったりする。

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思考

そこにあるものとして

 幸せというものは、そこまでして、複雑に考えるものではないのかもしれない。ただ、ふとしたときに、生きがいを感じることができればいい。それは、日常のなかでかいま見れる、ほんと一瞬なんだけど、愛おしい。夕日をみながら、今日も一日が、終わることを、かみしむことができれば、上出来だ。孤独に宿る魂が、火を噴き始めたとき、一人でいることの空虚さを、思いしるだろう。僕たちは、この生きにくい社会で戦おうと決意し、そして、幾度もなく、感情の扉を開いてきた。もし、それが何の意味も持たないとしたら、人生というものは、いささか、残酷である。

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・いっそのこと
 競争社会において、人より劣っていることは基本的に、問題とされる。仕事につけなかったり、貧乏な生活をすることになる。ときに、他人を蹴落として、這い上がる卑劣さを持ちなさいと、あなたは言う。そうであるならば、スタートラインは、同じにするべきではないかと、僕は言うだろう。障がいをもって生まれる人、勉強ができない人、要領の悪い人、貧乏な家庭に生まれ育った人、それらの全てを個人が背負い込まなければ成り立たない世界なんて、いっそのこと滅びてしまえばいいと思う。

・怒りを、あらわす
 それが成熟した社会だと言い張るならば、僕は、断固として反対する。人は、何の理由もなく頭が悪かったり、仕事ができなかったりする。そんなことを理由に、優劣を付けられ、社会から排除される世の中なんて、望んではいない。貧困のさなかで、誰からも援助されず、這い上がるチャンスさえ渡そうとしない仕組みが、あるいは、どん底から抜け出そうとする努力をあざ笑い、しょせんお前は、底辺で生きていればいいと吐き捨てる人間が、憎い。

・エクストリーム
 そんなものは、所詮、エクストリームな例でしかないと、あなたは言うかもしれない。大半の人が、普通の人生を送っているんだから、何の問題もない。そこにある「普通」という言葉が、僕には、暴力にみえる。普通じゃない人を遠ざける社会、一旦、道を踏み外した者の更生を鑑みないマスメディア、安易な情報操作で影響される大衆、そこには、もう希望という不確かな期待さえ、存在しない。だからと言って、簡単に絶望してはいけない。

    ★     ★     ★

 人は一旦生きてしまえば、生き続ける。そこにあるものとして。あなたが、どれだけ、不快に感じようが、僕はここにいる。思想や、政治的信条によって、他人の生き死にが決定されるほど、恐ろしいものはない。不条理な死を、見過ごしてきた過去に、戻るのは嫌だ。だからと言って、今がベストな状態とは言えない。急速に変化していく社会が、どこに向かおうとも、良心にそって生きる人が、報われる日を待ちたい。

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思考

イマジナリーに、終わらない

 どうやって社会の変化を解釈しようかと、躍起になっている人たちがいる。急速に変わっていく世の中は、知ってか知らずか、あざ笑うかのように、彼らを黙認しているようだ。いったい、どれだけの人間が、幸福な未来を描けているのだろう。もし、仮に自殺した人の声をきけるのだとしたら、あなたは、どんな問いかけをしたいのかを思考するといい。そこには、きっと自分がどんな風に生きて、そして、死んでいきたいのかという複雑な考えが、絡み合っている。

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・吐露する
 貧困に苛まれる国民、豪遊するお金持ち、政治に無関心な若者、いわれもない差別を受けるマイノリティー、普通に振る舞いなさいと教育される子どもたち、みずから命を絶とうとする精神障害者、青春を謳歌する学生、大人になりきれない大人、余生を送る高齢者、悟りをひらいた僧侶、誰しもに思い当たる、基本的属性は、虚しく台所にあるシンクの水路に流されていく。もう、男をやめたい、女であることに疲れたと、吐露するのも、たまにはいい。どうやっても捨てきれない、自分の本質に苦しむあなたは、けっして、愚かではないはずだ。

・声を、あげよ
 学歴や職業、年齢、性別、国籍によって、どんな風に、扱われるかが、左右されるのは、かならずある。案外本人は、その属性のせいだと気づかない。「僕は○○だから、こんなひどい扱いをうけたんです」というのは、言い訳ではない。差別が、もしそこに実在したのなら、それは声をあげなければならない。けっして、自分を責めるんじゃなくて。

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 他人を理解するのは、難しい。なんでお前は、そんな馬鹿なことをしてるんだと思う時は、多々ある。特殊な体験をした人の話を聞いて、自分なりの解釈を加え(もちろん、一方的なものではなく)、社会背景と関連づけて文字にする作業は、いわゆるアカデミックな世界で、滞りなく行われている。そんな文章は、イマジナリーな役割でしかないという批判は、当然ある。でも、そこにある事実なんて、あってないようなもんだと決めつけるのは、愚行だ。
 いま、当事者たちが語る物語性に、耳を傾けなければ、いったい、どうやって歴史を認識すればいいのか、途方に暮れる。その人の人生に降り注ぐ、希望や不安が、たとえ目に見えなくても、現実社会に押しつぶされないように祈ることを、忘れたくない。

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社会の出来事

自分が勝てるゲームに参加すればいいと思っている

 通勤電車に揺られながら、みなが同じ格好をして、会社へと出かけていく風景は、何気ない日常のひとつに違いない。でも、少しでも違和感を覚えたなら、あなたは、その直観に従って、生きるべきだと思う。どこかしら誰しもに、みずからを解放する時間が、きっと必要なのだ。僕は、なにも毎日、汗水流して働くひとが全員、不幸なのだとは言っていない。
 みんなが嫌がる、やりたくない仕事を、誰かが請け負っているからこそ、社会が潤滑に進んでいるのだし、感謝すべきだ。でも、ずっと必要以上に我慢して、それこそ身体を壊してしまうまで、労働に勤しむことはない。みんながみんな、好きな生き方を選択すればいいと思っているし、過去の伝統的な価値観に縛られる必要は、ない。

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・苦痛
 不登校の10歳の少年が、youtuberとして、世間の注目を浴びているのをみて、さまざまな意見が飛び交う社会は、案外、正常なのかもしれない。まず、僕が思ったのは、義務教育を終えて立派な社会人になることが、ひとつの全うな生き方という考えが、自分のなかに、案外おおきな塊としてあるということだ。だから、学校に行かないという選択をする子どもの主張に、モヤモヤとした感情が生まれた。自分も苦労して、学校に通ったんだから、僕が感じた苦痛から逃げるあなたは許せないと、言いたいのでない。

・批判
 学校にいかないという選択と、学校に通う生徒はみんなロボットのようで、自分で物事を考えない人間を量産しているという考えを、同じに扱うことを避けるべきだろう。もし、彼が、学校で、教育をうける子どもを愚かだと位置づけるなら、批判がたつのは当然と言える。

・許容
 同じ教室にいる生徒たちは、ひとつの空間に存在している。でも、だからと言って、みんなが同じレースに参加している訳ではない。それぞれの人生の隙間に転がり込む彼らは、それこそ階級、性別、人種といった、様々な社会環境のなかに属していることになる。つまり、そこには複数のゲームが、展開している。その中から、合理性を鑑みて、自分が勝てるゲームに参加すればいいと、僕は思っている。要は、くしくも、この社会は、自分が選択した人生に責任を持ちなさいと、けしかけてくる。その残酷な真実を、呑み込めさえすれば、どんな生き方も、許容されるべきだろう。

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 人の人生なんて、それぞれだよね、って言えれば、楽なんだけど、どうやら社会は、なにか正解を欲しているのだろうか。ある意味で、暴力的に、あるいは刹那的に。不安に駆られる衝動と、豊かな暮らしを求める人間性は、初夏の遠い青空の中に、飛んでいってしまう。僕らは、自分のことを正常だと、思い込んでいるに違いない。
 いうまでもなく、学校に通うことで、成長できる部分もある。でも、同じ教育を受けたからといって、みんながみんな素晴らしい人間になるとも限らない。学校に、いかなくても、目覚ましい才能を発揮する人もいる。混迷する社会において、絶対的に正しい選択なんて、ないんだから。そうだとしたら、自分に合った人生を歩むべきだと、僕は思う。

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日常・コラム・エッセイ

それぞれの流儀にしたがって

 うまくいくことばかりではない。当然のことながら。ひとりで、自分のなかの僕と格闘しているさまは、ひどく滑稽だ。へこんでは、下を見て歩く日常には、もう慣れている。そんなときは、お気に入りの道を辿って、家路に着こう。帰り道だけが、優しい香りがする。誰かに慰めて欲しいと思う時がある。でも、それは、都合のいい相手を求めているだけかもしれない。幼い頃に、母に抱きしめてもらった肌のぬくもりは、さざなみの彼方に消えていき、遠い記憶となってしまった。そうだ、ぼくは、あの瞬間から一人で、この世知辛い社会に挑もうと決心をした。ここによみがえる鮮やかな思い出は、決して誰にも奪われてはいけない。ただ、それだけが分かる。

 地元の銭湯で、一人で湯船に浸かっている時間が、明日への希望を蘇らすように僕を癒す。顔なじみのおっちゃんたちは、しゅくしゅくと、頭を洗ったり、ひげを剃ったり、サウナで汗を流したりしている。彼らは、それぞれの流儀にしたがって、儀式ともいえるルーティンをこなしていく。普段は、壁に囲まれた空間で行われるイニシエーションが、公共の場で、したたかに繰り広げられる。それは、なにか哲学的なものを、纏っているように感じる。

 散りゆく桜が、ブラックホールに吸い込まれるように、地面に落ちていく。僕は、昔から春が嫌いなのだ。無理やりに、あるいは強引に、季節は、なにか新しい時を刻んでいく。ただそこに、身を委ねればいいのに、不器用な僕は、足踏みをしてしまう。軽い胸焼けをしまいこみ、ちっとも楽しくはない、不確定な未来を待つしかないのが、現状なのだ。少し、けだるい感じがちょうどいい。まだ世界は、変わり始めたばかりだ。

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自分のこと

メランコリックな感情と、ディセンシーの問題

 世界は、難解な言葉づかいで、満ちている。空想のなかで、乱反射する言葉たちと光と影。その中で、僕に理解できる言語なんて、たかが知れている。心に猛烈に響く言葉は、春の風とともに、胸の奥底に吸収されていくみたいだ。いつかは、誰もがみな消えていくならば、ここに存在する魂と、愛に似た青いメランコリックな感情は、無意味にさえ思う。親にたいする敬意や尊敬を忘れてしまうほど僕は、愚かではないと胸に焼き付け、今日を生きる。

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・姑息
 バイ・セクシュアリティーというのを、説明するのに、ひどく苦労する。そもそも、僕がバイなのかさえ、あんまりよく分かってないのに。男好きの男ですというよりも、ほんとは女の子も好きなんだけどという予防線をはって、すこしは、みんなと共有できる部分があることを強調したい僕の姑息な計算が、そこにはある。それって浅はかだし、惨めだし、いったい、何にたいして体裁を整えてるのかさえ、分からなくなる。

・ニーチェの言葉
 でも、今の僕には分かる。そんなことにこだわる必要なんて、どこにもないのだ。相手が僕のことを知って、僕が相手について質問する。そのかけあいのなかで、相互理解に達する最短距離を、導き出していけばいい。僕は、こんな人間なんですと、一言で言い表せれば、どんなに楽だろうか。同性愛者だというレッテルを貼られることに、恐れを抱いてはいけない。「最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬこと」と、ニーチェは語る。

・命の灯火
 ひとさまの恋愛に、興味はなくても、コミュニケーションを継続していく上で、相手に自分の話をしなければいけない状況に置かれる時がある。それは、とても窮屈なんだけど。そんなときにいつも困惑するのだけど、最近は、正直に全部話すのがいいと思い当たった。僕は今、男性とお付き合いしていると、話すことにしている。それが、後ろ指をさされようと、構わない。白い目で見られても、気にしない。それなりに年を重ねた僕は、前よりかは、大人になった。強さとも言える人生においての教訓は、まだ一人で思い悩む彼、彼女たちに届くと願っている。消えかけた命の灯火を、葬ってはいけない。

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 いわゆる、ディセンシーの問題だ。なにが、人と人を結ぶのか。シンプルだけど、難解な問いかけは、今日も、夕日に照らされた赤子の頬の柔らかさに、呑み込まれていく。僕の、綴る文章に意味なんてない。ただ、一筋の炎が、辺りをまんべんなく灯し続けるから、その幻が消えないように、ひたすら祈り続けているのだ。

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思考

気持ちのかたまり

 誰も傷つけずに生きていくのは、難しい。分かってはいるけど、不意に、相手を悲しませた瞬間に、後悔するときが、多くある。僕は、いつまでたっても、不器用なのだ。できるだけ、波風が立たないように普通にしときなさいというけれど、それが、どんなに愚かで、つまらなくて、虚しいものなのかを、あなたは分かっていない。ありのままでいることが、あなたの個性を生み出すのよという言葉とはうらはらに、埋没していくだれにも届けることができなかった数々の思いたちは、春の風とともに、風化していくだろう。それらの思いを、僕は「気持ちのかたまり」と呼ぶ。

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・重みのあるもの
 穏やかな、なにげない日常のなかで、もう僕は、宇宙の広さや、やがて訪れる死について案じることもなかった。なにもかもが足りないようで、いつまでも満たされない感情だけが、膨れ上がっていく。それは、概念と呼ぶにはあまりにも生々しく、現実的な重みをもったものだ。

・暗喩
 世界は今日も、音をたてることなく、呼吸をしている。僕も、その息づかいと連動するように、呼吸をする。夜空にかがやく星のきらめきも、うすっぺらい野原をかける風も、とぎれのない川の流れも、決して自分と無縁のところでおこなわれているわけではないのだ。僕は、だれかに理解して欲しいなんて、思っていない。「理解とは誤解の総体に過ぎない」と誰かが口にした。そんなややこしい暗喩を、ひけらかしたいんじゃない。だって僕らには、愉快な回り道をしている余裕なんて、ないんだから。今日も、少しずつ季節が回転している。

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 これからは、シフトを変えよう。少し早いかもしれないけど、僕は、ゆるやかに死に向かう準備をしなくてはならない。そんな大げさなことじゃなくて、ただ心の持ちようの問題だ。生きることだけに、多くの力を割くというのは、案外しんどいのだ。僕にとっては。
 その人自身の人生の価値なんて、誰にも分からない。あるいは、成功ではなく、その破れさりかたによって、本当の価値が定まると、僕は思っている。当然のことながら、だれもが限りある存在なのだから、いつかは終わるのだ。それを待ちわびる余生があって然るべきだと、季節を象徴するかのように、緑を揺さぶる風が、教えてくれた。